小説【病気の家族がいること】私は病気の妹と暮らしていた

こんにちは。ぷにんた。

以前ブログに書いたことがあったので知っている方もいらっしゃるだろうと思いますが、私には病気の妹がいました。

妹は5歳で他界しました。妹はずっと入れなかった幼稚園の入園を楽しみにしていました。

小学生に上がる前の私には妹の死はあまりにも早く感じました。

今回は私が実際に経験した家族の話をします。そこから何か感じて頂けることがあればと思います。

早すぎた妹の死

妹はとても明るくて、おふざけが大好きな子でした。とにかくふざける。

母が妹に黒タイツを履かせれば、妹はおもむろに上の服を脱ぎ捨て「うぉぉおおぉぉ!!!」と雄叫びを上げながらソファにダイブする遊びをして楽しんでいました。そう、江頭2:50を彷彿とさせたお遊びです。

私もTシャツを脱ぎ捨てダイブに参加していました。黒タイツを履かせた母はこれを完全に狙っている…

私は部屋中走り回り何度も何度もソファに直角に突き刺さる勢いでダイブしていました。しかし、妹はダイブを3回できません。

すぐ顔色は悪くなり、吐いてしまうのです。

そうか、妹は走ったらダメなんだ。

私は妹と一緒に遊んでいるうちに学んでいきました。

妹は難病指定されているファロー四徴症という病気でした。20歳までは生きられないだろうと病院の先生には言われていました。

上半身を脱いだ妹の身体はできたての手術痕で痛々しく見えていました。

ファロー四徴症とは

ファロー四徴症(ふぁろーしちょうしょう)とは、

  • 右心室から肺への血流が妨げられている(右室流出路狭窄)
  • 大動脈が左右の心室を隔てる壁に開いた穴の上に横たわっている(大動脈騎乗)
  • 右心室を作っている心筋の肥厚
  • 左右の心室を隔てる壁に穴が開いている(心室中隔欠損)

これら4つの特徴をもった先天性心疾患のことです。

ファロー四徴症で生まれてくるのは1万人のうちに数人のようです。手術をすれば寿命まで生きる人も少なくありません。

妹の場合少し歩くだけでチアノーゼ(血液中の酸素不足で唇や爪等が青く変色すること)が出て、体調を悪くしてしまうのでいつでも絶対安静でした。泣くだけで一大事なのです。

他に脳のレントゲンを撮ると話す機能と酸素を送る機能の所に影があり、脳の一部が欠如していました。

そんな妹は病気と上手く付き合っていました。

妹とおやつを食べていても食べてはいけないものが多く、私が注意する前に妹が「チョコレートだめだよ!」と私に教えてくれます。

1番大変な思いをしているのは本人ですが、病気の家族との暮らしはとても目まぐるしいものでした。

病気の妹と暮らすこと

病気を持った妹との暮らしではたくさんの経験、学びがありました。

妹は善悪がしっかり把握できないのか、よく店で気に入ったものを手に取るとそのまま持ち帰ってしまいます。堂々と万引きをするので、買い物中は母の代わりにずっと妹を見ていなければなりません。言葉の発達が遅れていたので、行動で止めるしかない時も多々ありました。

母が買い物で外出中、留守番をしていた時は妹が走って母を家中探し回っていたので、走るのを止めるべく扉を閉めると妹は扉にぶつかってしまいガラスが割れ頭が切れてしまったこともありました。妹は目が悪いことを知りました。

小さい私には難しいことが多すぎました。

妹は外で遊べません。私は友達と外で激しく遊ぶ時は勿論妹は参加できません。その度に妹は一人ぼっちになっていました。

私の好きな遊びはままごとになりました。

妹を気遣い、「一緒に遊ぼう」と妹の大好きな人形で遊ぶままごとを提案しました。すると妹はいつもペンで人形のお腹に線を描きます。

手術ごっこです。

妹は手術が多く入院生活ばかりだったので、家での生活ではなく病院での生活を人形に描写していました。それが楽しいようです。妹は自分なりに入院生活を楽しんでいたんですね。

母は入院している妹に付きっきりで数ヶ月家に帰ってこないことがあり、私は母に「妹ばっかり」と一度愚痴をこぼしてしまったことがありましたが、きっと妹の方が寂しい思いをしていたんだと思います。

妹はいつでもどこでも全力で遊びを楽しんでは後になって顔が真っ青になります。私は子どもなりに妹は楽しみたい気持ちが青色になって現れているんだと解釈していました。

精一杯生きていたんだな。

妹と遊んだ最期の日

妹は笑顔が素敵で閉じてしまう程目を細めて豪快に笑います。この姿が大人の心を鷲掴みにし、大人は勝手に妹の姿に励まされていました。

妹は所謂パワースポット。

この日も祖父の喫茶店で塩を手の平に出して2人で舐めていました。お客さん、お店の従業員、たくさんの人に遊んでもらって大満足していた時でした。

私と妹が大好きなお店の従業員が仕事を終え帰宅する時間。やっぱりバイバイは寂しいななんて感じながらもお見送りしました。妹と私は「バイバ〜イ!!!」「また明日ね〜!!!」なんてはしゃぎながら従業員さんの姿が見えなくなるまで手を振りました。姿が見えなくなっても妹は手をふっていました。

なんだか今日は妹がよく挨拶をする。

次の日の朝。私は母に叩き起こされると鼻から口から大量に血を出してぐったりしている妹を見ました。

これが最期の日でした。

病気の家族に掛ける言葉

妹は死と隣り合わせにありながらも、いつも力強く生きていたんだなと。死ぬなんて考えさせもしないくらい明るい子でした。

病気の家族がいるとたくさんのことを一緒に経験します。一緒に経験するけれど違った視点でそれぞれが学びます。

一つ学んだからといって暮らしの悩み全てが解決されるわけではなく、どんどん悩みや困り事は出てきます。

どれだけ辛くても1番辛いのは病気である本人。

「がんばってね」「早く良くなるといいね」なんて声は掛けられませんでした。

「一緒に頑張ろうね」

しっくりくる言葉はこれでした。

母もとても大変な思いをしていました。家族皆で頑張る。これが家族にとっては大切なことです。

家族はいつか病気になる

今まで元気だった家族が突然病気に掛かることがあります。

絶対に後悔して欲しくないこと、

家族との時間です。

家族との時間は大切にすべきです。いざ何かあった時人間は「もっとあぁしていればよかった」という後悔が生まれるものです。

そうならないように家族との時間大切にして下さい。

 

私は妹とたくさん遊べて幸せいっぱいに育ちました。

それでは次回。

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私には一歳の子供が居ます。この記事を勝手ながら親目線で考えてしまいました。妹さんの死は親御さんにとって大変辛かった事と思います。本当に言葉に言い表せないです。一生懸命生きた妹さん、それを支えた家族。本当に素晴らしい家族だと思います。ぷにんたさんもいつか自分の家族のような絆がある新しい家族を築けたら良いですね。

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