【小説】薬漬けで、記憶が消えた。6年前の自分の行動がヤバ過ぎる…

こんにちは。ぷにんたです。

自分の家庭環境は知っていても、友達や知り合いの家庭環境ってなんとなく聞きづらいなんてことありませんか?結構ナイーブな話なのでヤバい家庭に生まれた人の環境ってどんな感じか聞いてみたいけど聞く機会がないと思うので、今回は私の家庭環境についてお話ししようかなと思います。

「あなたの生い立ちを小説にしてもいいですか?」なんてお問い合わせがあるくらいです。

 

私は記憶が一度消えたことがあります。学んだこと、関わった人、何をしていたか、覚えていないことが多くて最近になってショックを受けています。小学生からやり直した方がいいのではないだろうかというくらい知能が落ちています。

それはもう戻ってこないようです。

6年前に起きた出来事がきっかけでした。このことは忘れられません。

注意
あまりにも暗い内容であり、一部過激な情報が含まれていますので、ブルーな気持ちになりたくない方は他のブログを読むことをお勧めします。

しかもかなり長いです。

6年前に起きた出来事

6年前、私が大学生の時ですが鬱病にかかりました。その原因となった6年前の出来事について話します。

6年前の出来事

私には父、母、年子の妹がいました。妹は重い心臓病と大人のこぶしくらいある脳腫瘍を患っており、私が小学校に上がる前亡くなりました。20歳までは生きられないだろうと元々余命宣告されていました。少しの距離歩くだけでチアノーゼ(唇が紫色になる)が出て、体調が悪くなり吐いてしまうので外で一緒に遊ぶことはできませんでした。笑い方が「あひゃひゃひゃひゃぁぁああ」と豪快で、「お姉ちゃんと呼びなさい!」とお姉ちゃんらしく言ってみても呼び捨てするし、一緒にパンイチに黒タイツ履いては江頭2:50分の如くソファーに飛び込む遊びをするくらいとても明るい子でした。

父と母は私が小学校1年生の時に父の不倫が発覚し離婚しており、父の方にはその数年後新しい家族ができ、子どもも生まれました。奥さんは不倫していた時の相手です。めちゃくちゃな父ですが私の血の繋がったお父さんなので、父とは2人でたまに出かけ、数回父の家族と食事に行ったりもしました。私の学校の行事や入学式や卒業式、部活の大会など必ず観に来てくれるいいお父さん。お父さんの子どもは私にとって“弟”で、大好きです。家族が増えたようでした。

そんな父親から「家族と最近うまくいっていない」と連絡があり、相談を受けていましたが私は保育園実習で忙しくあまり連絡を取れずにいました。話を聞くとどうやら父親の奥さんが子どもを連れて家から出ていってしまったようでした。寂しい、どうしようと父は話していました。

父親は陽キャラで人当たりが良くとても好かれるタイプで、面白くてユーモアがありたくさんの友人がいます。父は多重人格でその裏の顔はとてもキレやすく、キレると止められないくらい暴力を振るう危なっかしいサイコパスに限りなく近い人です。母は何度も血まみれにされ、顔面骨折をするほど酷いものでした。奥さんと酷い喧嘩でもしたのでしょう。

私はと、母の彼氏(私にとって父のような存在の人)と3人で暮らしていました。血のつながった父親とこういうやり取りをするのは悪いなと思い、2人には連絡を取っていることを話しませんでした。

LINE

父はLINEで気持ち悪い絵やコラ画像等しょーもない写真をネットで見つけては送りつけてくる人ですが、また変なLINEがちょくちょく送られるようになりました。

「玄関から声がする」「夜中に車のおもちゃの音が鳴って勝手に動き出すから寝れない」など。父にしては珍しいLINEでしたが勝手に動くような機能がついているおもちゃでもないし、どうせ冗談だろと思って聞き過ごしていた次の日の夜、父からまたLINEが送られてきました。

「玄関の外から誰かのぞき込んでくる。」

と。写真付きで送られてきましたがその時はかなり違和感を覚えました。写真には縦に入った玄関の細い擦りガラスから確実に人がのぞき込んでいました。見間違いだったらよかったのですが顔がしっかり……。さすがに父も怖かったらしく私に電話してきました。

 

たわいもない話をしていましたが父はかなり落ち込んでいた様子だったので、

「あと3日で実習が終わるから、落ち着いたら会おう。」

そう私は父に電話で伝えました。父親は電話をしている時いつもなら斜め上のぶっ飛んだ冗談をブチかましてくるはずなのに、

「そうか、わかったよ。」

とあっけなく電話が終わってしまいました。

休日

それから電話は掛かってくることがなく3日が経ち目まぐるしい実習期間が終わった次の日、休日で私は約束していたスポーツ観戦に出かけていました。夜になり友人宅でくつろいでいると、友達宅に電話が一本入りました。

友人の母親が電話に出ると、私の母からの電話だと友人母に不思議そうに子機を渡されました。

(なぜ母からこの家に電話を掛けるんだ?)

そう疑問に思いながらも電話に出ました。

 

私「もしもし?」

母「携帯に何度も電話したけどなんで出ないの」

いつの間にか携帯電話の充電がなくなっていました。友人宅に行くことは伝えていたので、どうにか連絡を取ろうと何時間もかけて友人宅の電話番号を調べたようです。

私「そんなに電話してどうしたの?」と聞くと、

母「落ち着いて聞いてよ。大丈夫か?」

私は母のこの問いかけで察しました。

 

「お父さん、自殺したの?」

 

母に違うと否定してほしかったですが、間違ってはいませんでした。「今からすぐそっちに迎えに行く、だから落ち着いて待っていて」と電話で言われたと思いますが、子機が手から落ち泣き崩れて息が苦しく呼吸もできず座ってもいられませんでした。友人の母が看護師だったのもあって私は介抱してもらいながら呼吸を必死に整えつつ、母と母の交際相手が迎えに来てくれるまで待ちました。

私はずっと「なぜ実習が終わったのにお父さんに電話しなかったんだ。なんで会わなかったんだ。なぜお父さんを助けなかったんだ。」と自分を責めました。ずっと責めていました。苦しい。

私はショックのあまり足の力が入らず立てなかったので、母の交際相手に担いでもらいとりあえず帰宅しました。迎えに来てもらってから後のことは覚えていません。

あんなに明るいお父さんが……

葬式の日

2日後くらいに葬式がありました。母は父を奪った今の奥さんに会いづらいと葬儀を欠席し、私は一人で参加しました。今にも気絶しそうなくらい精神が崩壊しかけていましたが、泣くのも我慢してガタガタ震える足を必死に抑えながら歩いて葬儀会場の中へ。父の奥さんが私に挨拶をしにこちらへ近づいてきました。

奥さんが私に「久しぶりだね。」と一言声を掛けた途端、奥さんは感情を取り乱し足から崩れ落ちるように私に向かって土下座をし、

「ごめんなさい、本当にごめんね、ごめんなさい、ごめんなさい」

とぐちゃぐちゃに泣きながら苦しく叫ぶように何度も謝ってきました。精神的に辛く意識が朦朧としていましたが『とにかく冷静でいなさい』と母に言われていたので、奥さんの元にしゃがみ込み「謝らなくていいです。」と伝えることしかできませんでした。父の子どもは保育園の年長だったのでなぜ父が死んだか、死んだこともしっかりとは理解していないようでした。父は“病気で死んだ”と言っているそうです…

葬儀会場の中は父の家族や会社の人、友人がたくさんいました。こんなに人から愛されていたんだと驚かされました。久々に父の家族や友人と10数年ぶりに再会し、私が赤ちゃんの時から可愛がってもらっていた人たちに「大きくなったね」と涙ぐみながら温かい言葉を掛けられました。こういう場で再会するのは辛いですが、父はたくさんの人に会わせてくれました。

 

落ち着いたところで父の元へ。

久々に父の顔を見ました。父は棺桶の中で寝ていました。起きないんです、頬を触っても。首元から下は布で厳重に覆われており、あの大きな手にはもう触れられません。

ぶわっと涙が溢れて来ましたが、自分を見失わないようそっと息を吐くように父に感謝を伝えました。ずっと手の震えが止まりませんでした。

 

葬儀が終わり、父を燃やす時。もうお別れをしなければなりません。お父さんのことだから「うっそーん」とか言って棺桶から出て皆を笑わせるんじゃないか期待してもいつまでも起きなくて….父の友人が「嘘だろ?」と言っていました。父の子どもが泣いていたのを私は見ていられませんでした。皆が花やお父さんが大好きな食べ物、大好きな調味料、好きなタオルなど棺桶がいっぱいになるまで父の生きた証を詰めました。「あの世で太るぞ」なんて笑い泣きしていた友人。最後は結局お父さんは笑わせにくるんだな。

 

骨だけが残ったその景色に、私は「お父さん」と呼べなくなっていました。

 

奥さんの私に償う姿、もう生きてはいないのにそこにいる父の姿、頬の冷たさ。この日の映像、手の感覚が今でも頭に焼き付いています。今生きていたら…..

亡くなった場所、父の家

葬儀の次の日。私は父の両親姉と私の母と一緒に父の家に行きました。父が2日程仕事を無断欠勤し、それを不審がった会社の同僚が父の家に行くと鍵が開いており、廊下で父が倒れていたのを発見したそうです。近くには何枚ものタオルが縛られそれで首を吊ったがガタイがデカすぎて首の骨が外れ、即死だったのではということでした。タオルはずっと父を支えられず解け、父は倒れていたのです。父のことだから衝動的に自殺に試みたら見事に死んでしまったのではと。

実際現場を見るとものすごくショックでした。家を建てた時あんなに喜んで見せてくれたあの家。それがこんなに暗い場所に。

父の両親と姉は父の家の整理をするため、1泊したそうです。その夜、とても怖い思いをしたと言っていました。

車のおもちゃが勝手に鳴り動き出した

と。父が死ぬ数日前に言っていたことと同じだと話したら驚いていました。この家が呪われているのか、父が何者かに殺されたのか、本当に自殺したのかと議論をしましたが、自殺との結論に至りました。

数か月掛けて私は狂った

父が死んだことで私は自分を責めました。父に頻繁に連絡を取っていればこんなことにならなかったんじゃないのかと。それでも自分で大丈夫大丈夫と心に言い聞かせていました。父が死んで2ヶ月程から頭が段々おかしくなりました。

父が死んで1か月が経ち春休みが終わり、大学に行きながら実習の準備をしながら就活をしながらも遺産相続の話をしに死んだ父の家に行き、大学生活は忙しく気が狂いそうだったので大学中退を考えましたが祖父からは絶対卒業しろと言われ、たくさんのストレスに苛まれ自分が気づかないうちに頭がおかしくなっていました。

いつの間にか鬱病にかかっていました。

ショックから無意識に暴れて私が自殺未遂や周りに暴言、暴力を振るうようになり母親や母の彼氏もお手上げ状態になったために精神科へぶちこまれました。私はそのことを一切覚えていません。通院していた記憶すらないのです。

母に扇風機を投げつけたり、階段から人を突き落としたり、やったことは犯罪になりかねない程危険なことでした。自分には自殺願望があったようで無意識に2階のベランダから落ちて死のうとしていたらしいです。2階から落ちても死ぬわけがないのに、それを見事にやってやろうとしていたんです。下手したら無傷です。恐ろしい…..

「死んでやる!死んでやる!」と叫ぶ私に見兼ねた母の彼氏は包丁を持ち出し、私に向って「ならお前を殺して俺も死んでやるよ!!!」と本気で包丁をぶっ刺して私を殺そうとしたことがある、と後で聞かされました。母の彼氏は私を本当の娘のように育ててきてくれたのできっと本気でぶつかってきてくれたが故の行動だったと思います。

私が夜中でもワーワー叫ぶそうなので、両親は私が動けないように手足を縛っていたそうです笑 そのことも聞いた話なので、やられた本人は一切覚えていません。

精神科で処方された薬

精神科へ連れていかれると私は鬱病と診断されました。

精神科で精神安定剤睡眠薬を処方されていたらしいですが、とんでもなく強い薬を飲まされていました。飲んで数分で頭がぼーっとして強制的に眠らされます。薬を飲んでからの自分の行動は一切覚えておらず、出かけた記憶も大学に行ったことも何を食べたかも覚えていません。薬が切れた時は、薬を飲んでいた時の記憶が全くないため、どこで何をしていたのかを後で聞かされてびっくりするのです。

前日に友人宅で夕食をご馳走になったことなんてなかなか忘れませんよね?

意識がないのに、友人宅で「おいし〜いおいし〜い」と無表情でマグロを頬張っていたそうです。
しかもマグロを友人の家で食べたことなんて覚えていない。友人の家にお邪魔したことすらも…。恐ろしいですね。

薬を飲んだ後の私の目はラリっておりうつろで話しかけても目が一切合わなかったと母は話しています。ちなみに薬を飲む前は人を殺しそうな程狂気に満ちた目で人を睨んでいたらしいです。

薬でぼーっとして自分では大学へ通うことができなかったため毎日片道1.2時間かけて親の車で大学へ。講義中は勿論寝て過ごす。教授は私の状況を知ってか授業中寝ていても確か怒られはしませんでした。

覚えていることは薬を飲んだ時の感覚です。私は薬で無理やり寝かせられ、一日中ぼーっと何も考えられず、薬を飲んだ後はまるで自分が殺されているような感覚でした。抗うつ剤と睡眠薬を飲む度に脳みそがじゅわ~っと溶ける感覚がしていました。いや、感覚ではなく実際に記憶が溶けてなくなったのかな。

強い薬は飲んではいけません

薬というのは、時に人間をダメにします。

無理やり寝かしつけられ、意識を飛ばす程の強い薬を飲まされたことにより気付いた時には人生の大半の記憶が消し去られました。記憶力は衰え、勉強をしても身に付かなくなっていました。鬱病になる前は「怖い」と言われる程記憶力は良く、大学では200人中上位でしたが、卒業するときには150位ほど落ちていました。

あまりにも薬が強く一人で生活することすら困難だったため就職活動や幼稚園実習は断念し、大学を卒業することだけに専念しそのために家族や友人、大学の先生に協力して頂きました。結局就職先は決まり、単位は一つも落とすことなく卒業し、小学生の時から決めていた職業に就職することができました。

薬を飲んでた1年間の記憶だけでなく、今まで生きてきた思い出や学んだことをかなり失いました。覚えているのは親とSNSで繋がっている友人の一部…

鬱病でも強い薬は飲まない方がいい!!!!

鬱病の方はどういった薬を飲むかしっかり医師に聞き、薬が強いと思ったら無理に飲まないようにしてください。

父からもらったもの、奇跡

父が死んだことでとんでもない経験をしましたが、そんな父からは絶対にしてはいけないことを教わりました。命の大切さは妹から教わっているのですが、「絶対に自殺はしてはいけない」と父から学びました。

周りの人間は悲しむだけではなく、自分を責める感情を生んでしまいます。死を悔やんでしまうのです。数年経ち今は「父の死を生かす(活かす)ことはできないか」プラスに考え、試行錯誤しています。

父が死に、私は家族に多大なる迷惑を掛けました。特に母の彼氏には…。「お父さんがお父さんが」と悲しむ私を見て娘同様に育ててくれた母の彼氏はとても辛かったであろうと思います。

 

そんな母の彼氏は、今では「お父さん」になりました。私が就職をして自立した頃、母と結婚しました。私は泣いて喜びました。

今のお父さんには20数年前に生き別れた息子が2人いました。私の父の自殺で何か感じたらしく、たまたまフェイスブックで見つけた息子らしき人物に勇気をふり絞って連絡をしてみると見事に息子で、父と息子は初めて会って以来飲み仲間になりました。息子さんはその後結婚し奥さんも含めてたまに私の一家とパーティをします。家族が増えたようで嬉しいです。

私の今の父は20歳前くらいに家出をし父の両親とは生き別れになり一切会っていませんでしたが、息子さんが会わせてくれました。父と両親は再会を果たし、その1週間後父の母親は亡くなりました。生きているうちに再会できて本当に良かったと話していました。

悲しい別れがあったけれど、生きていれば嬉しい出会いも訪れるんだな。

まとめ

父が死んでから6年。父のフェイスブックには未だにたくさんのコメントが寄せられています。

父が死んで気がおかしくなるくらい悲しみ暮れましたが、それでも頑張ってやってきたおかげでたくさんの幸せが訪れました。あぁ、生きていてよかったなと。

家庭環境は人それぞれで生まれた環境は選ぶことができません。私は生まれた環境を恨むことがありましたが、親は選べなくても自分が家族をつくることができます。これだけ恵まれた環境のおかげで(皮肉交じりですが)たくさんの価値のある経験ができました。

とんでもない親の元へ生まれてしまった方は親が羨むほどに素敵な家庭を築いてしまいましょう。生まれた環境は人それぞれなので、「母子家庭がどーのこーの」とか相手の家庭環境をなじるような発言はしないようにしましょうね。子どもにもそう教育しましょう

家族はかけがえのない存在です。絶対に後悔をしないよう家族に尽し、家族と遠く離れている人は時間を作って家族に会いに行きましょう。1年に一度しか家族に会えないとしたら、一生のうちに後何回家族に会えますか?

幸せな最期が送れるよう、後悔しないように生きましょう。

 

暗い内容で申し訳ありません!!

それでは次回。

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